あいさつ運動が大嫌い

 
  「日本人はお店で店員の挨拶を無視する あれは気味が悪くて評判が悪い」とtwitterの海外在住のアカウントが話題にしていた。
 
海外の日本人の評判の中ではけっこう有名な話らしく、それはなぜか?といった問いにも定番の解答がある。
「それは日本は治安が良いからだ 治安の悪い国ではお互いが声をかけあい敵ではない 怪しいものではない と表明しあっている」というもの。
 
なるほど聞けばそうかと納得するものではある。
 
でも私は理由はそれだけではないと思う。
 

日本では 言葉がどんどん空っぽになってきている。

テレビを観ていると、空っぽの言葉をどれだけ操れるかが大人の証しかのようなそんな社会に日本は見える。

私たちは日々空っぽの言葉を使うよう訓練されている。 

    

たとえば 私の日常の風景の中で大嫌いなものの一つに 小学生の挨拶運動がある。

ある期間に 小学生を複数駅前や校門に立たせて 壊れたレコードのようにひたすら
「おはようございまーす!        おはようございまーす!         おはようございまーす!         おはようございまーす!         おはようございまーす!       おはようございまーす!  おはようございまーす!(延々続く)」
とやらせるあれだ。
 
あれにぶち当たった日は朝から不快でたまらない。
就業時間が始まれば私たちも 嫌でも愛想よく義務的な挨拶の応酬をしたければいけないのに、なぜ通勤時間でまで 子どもの(本人達が好きでやっているわけでもない)絶叫挨拶を聞かされなければならないのか。
その前を 不快でたまらない私は足早に無言でかけぬけ、それににこやかな挨拶を返せないことにも罪悪感を覚える。

もちろん挨拶を返す人はほとんどいない。たとえ「朝から元気だね!おはようっ!」と返す人がいたとしても その人のことを特にいい大人だ とは思わない。子供たちがそれを自発的にやっているのでない限りは。

   挨拶は人間関係を円滑にするためのものらしい それは同意しよう。が、わたしのように不快になる人間がいるのはなぜか?

“元気よく挨拶するのは良いことだ” との正義から、大人が子どもに挨拶を強要し 空っぽになった言葉を延々金切り声で叫ばせているからだ。 
その正義を無理やり通行人にも押し付けて無駄な罪悪感を抱かせている。
正直 こんなことをさせる輩に子供の教育のなんたるかを語って欲しくない。

    空っぽな言葉が嫌いだ。        

マナーや配慮の域を超えた、なにも表現しないからっぽの言葉が大嫌いだ。

美辞麗句でも罵詈雑言でも誉め言葉や美しい表現や暗い言葉や暴力的な言葉でも、言葉を誠実に使わない人が嫌いだ。
 
真に何かを訴えよう、コミュニケーションしよう、表現しようとする時の言葉は例え悪い言葉でも素晴らしい。逆にそれで何も表そうとしていない からっぽの言葉は例え美しい言葉でも意味が無くて醜くい。

   本を読むのが好きだったからかもしれない。私は言葉の力を信じているし 言葉のやり取りが大好きだ。
空っぽの言葉を皆が使い出すと、言葉の力がどんどん奪われていく。
コミュニケーションして誰かと繋がる 本を読んで救われる 表現することで自分を発見する  言葉があるから考えることができる。
……そんな言葉の本来持つ力が奪われていってしまう。

       私が 最も誠実な大人の1人として好きな中島義道の著書、「私の嫌いな10の人びと」では、大人がよく使う空っぽの言葉に真理を詰め直し、人間らしく考える言葉にした例があった。
爆笑して何度も読み返してしまった箇所だ。長い引用ですがぜひ。↓ 

『(私は花向けの言葉が嫌いだ)なぜなら、それは、普通、目前に開けている世界に船出する若者たちを「励ます」言葉で埋もれているからです。病、老、死、をはじめ、人生の暗い側面に蓋をして、希望をもって積極的に生きる姿勢ばかりが強調されるからです。
 …(略)つまり、この世は誰でも知っているように、どんなに努力しても駄目なときは駄目だし、たえず偶然にもてあそばれるし、人の評価は理不尽であるし、そして最後は死ぬ……こういうことも含めて人生だ、というあたりまえのことをそのまま言いたいだけなのです。ですから、何も難しいことではなく、例えば普通のはなむけの言葉の各文のあとに「どうせ死んでしまうのですが」というワンフレーズを付け加えるだけで、私の気持ちはかなり正確に伝わる。
 
 
例えば、同時に掲載されたN先生の「個性輝く人生の門出に向けて」と題するはなむけの言葉を、私の趣味にかなうように「修正」すれば次のようになります。
 
 
「ご卒業おめでとうございます、どうせ死んでしまうのですが。
みなさんはこの人生の新しい展開に、やや不安を抱きつつも、大きな希望に胸膨らませていることでしょう、どうせ死んでしまうのですが。…(中略)
将来を見据えて、これを大きく育てるとともに、みなさんの内なるもの(まだ自覚できていないかもしれませんが)を引き出し、ますます自己の個性化に拍車をかけていってほしいと思います、どうせ死んでしまうのですが。
……社会に出ると、かつて経験のない困難に遭遇することもあるでしょう。そういったときこそ、みずからの個性を見失うことなく、困難を糧として、大きく成長する機会にしてほしいのです、どうせ死んでしまうのですが。
何年かの後に、逞しく成長した皆さんの笑顔に会えれば、これほど喜ばしいことはありません。今後の健闘を切に祈ります、どうせ死んでしまうのですが。」』

……(´^ω^`)www

私は中島義道のように言葉を誠実に使う、誠実で変な大人でありたい。
 
 
 
 
 
 

子どもは金の足枷

日本においてお母さんとは、金の足枷をはめられた奴隷のようなものです。 それはとても大きく価値があり財産であるとともに ...