fbpx

お母さんだって夜の高速をとばしたい~ケア労働の本当の辛さとは~

息子の“オンライン彼女”のメンヘラ相談を半分白目で受けている母です…(ㅇ¬ㅇ)

 

なんだよ会ったこともないお互い素性も知らない相手のことを「彼女がな~」とかゆーな!きしょいんじゃ!

 

 

「時代はな、お母さんがわからんところまで進んでんねんで?」

 

とか逆に時代遅れ呼ばわりしてきてうざい(笑)

 

いや、言いたいことはわかるよ? 毎日学校で顔合わせてても自分の話なんかできない相手より、ネット上だからこそ話せる暗い話や辛い話をし合える相手に繋がりを感じるのは。

わたし自身も息子が小さいころの、自由に動けない周りに話の通じる人がいない環境で、Twitterやビアンの出会いサイトで人と繋がることで救われてたからさ。

 

しかし、息子に「それが親の言うセリフ~!?」と嫌がられた忠告

 

「遠くの本命より近くのセフレ」

 

も真理だと思うので、ゆめゆめ素性の知れぬ相手との遠距離は油断するべからず。

 

 

 

と、今日はそんなことが書きたかったんじゃないんだ。

 

今日は “わたしがどれだけお母さん業がきらいか” 言うことが書きたかったんだ。

 

こんな文章すら書ける時間を奪うお母さん業(ケア労働)が、どんだけ自分を縛っているか、それの辛さを言語化したかったんだ。

 

無責任にお母さん業の素晴らしさを謳う言葉は世の中に溢れかえっているから、当事者ぐらいはそれのしんどさ辛さイヤさを発してもいいと思う。

 

 

お母さん業をディスったり愚痴ったらすぐ、ダメ母、虐待親、母親失格などなど、見捨てられ不安の大きい人が口を塞ごうとしてくるけど、

 

ʅ(´⊙౪⊙`)ʃ シラネ。

 

 

目の前の家事、子育てを日々きちんとやっている圧倒的事実に比べたら、愚痴を表現し 共感しあい 励まし合うことなんてプラス以外の何ものでもない。

それができない人が、いいお母さんの外面をキープしたまま子供の頬を張り飛ばしていたり、子どもを自分の愚痴の聞き役に仕立てあげているのかもしれないじゃない?

 

 

 

 

わたしはフルタイムで働いているので一日の真ん中の9時間は職場にいる。

それを無くしては衣食住が賄えないのでそれは動かせない最優先すべきわたしの仕事だ。

そして来年の春には海外転職するべく、去年から英語に慣れる機会をふやしている。

 

 

 

月・・・・昼/仕事 夜/SkepeでExchange Language

火・・・・昼/仕事 夜/Skepeで英語レッスン

水・・・・昼/仕事 夜/Krav Maga(格闘技)

木・・・・昼/仕事 フリー

金・・・・昼/仕事 夜/Krav Maga(格闘技)

土・・・・溜まった家事こなし、ゆまちゃんと過ごす

日・・・・溜まった家事こなし、ゆまちゃんと過ごす

 

(今回のこのブログはフリーの木曜日に書き始め、金曜、土曜、日曜と少しずつ時間を見つけて書き、月曜と火曜でイラストを描いてやっとUPできるくらいのペース)

 

 

家事はあまりに当然に毎日あってやらなきゃいけないものだから、予定としてみな認識しない。

家事を主に担わない人なら余計に、仕事として認識していない可能性がある。(フェミニズムでもこれを隠された労働シャドウワークと呼ぶ)

 

それでも家事はまるで緩衝材のように、予定と認識される物事のあいだをみっちりと埋める。

 

 

例えばわたしはこの中でも特に食事の準備がきらい。料理は苦手ではないし美味しいもの作れる自信はある。

 

それでも、

「ごはんまだ?」って言われると胸がずーんと重くなってきてしんどい。

 

さっき、作って食べさせて片付けしたばかりなのに数時間で「今日のごはんなに?」「おなか減った」と言われるのだよ。

あたりまえのことだけど、それが延々と毎日続くのだよ。

材料揃えるのにも、作るのにも、片付けるのにも時間はかかる。それが数時間おきにあるわけだ。

終わったとおもって持ち場(キッチン)を離れても数時間で持ち場にもどれと命令される、そんな圧力を感じる「ごはんまだ?」

 

 

 

完璧主義だったり、人の評価を気にしたり、真面目だったり、ちゃんとしなきゃ!って思う人ほど、自分のやりたいことを、

“自分の時間ができたら” “家事が終わったら” その時にやろうと後回しにする。

 

でも、そんな甘っちょろい気持ちでいたら一生その時はこない。延々と家事はエンドレスタスクとして目の前に流れ続けるのだから。

それについて書いた過去記事

 

目の前の生活の問題に追われていると、生産的なことなんてできない。 いきなりブログの更新が滞っていたことの言い訳で始まりました。...

 

 

そして家事よりも目に見えないケア労働が実はあって、それがお母さんを始め日本社会の女性には当たり前のように課されている。

 

家族の、身内の、同僚の、身の回りの世話のみならず心のケアをすること。

家庭で、職場で、社会でそれは求められる。

 

 

以前書いた職場の騒動 で女性社員の朝のお茶出し、男子トイレの掃除、ごみ集め、コップ洗いが廃止されたにもかかわらず、

こんにちは あなたのオフィスの ラオウです 言わずと知れた漫画「北斗の拳」(集英社 武論尊原作、原哲夫作画)の名言メーカー拳王ラオウ ...

 

騒動の元凶であるお局さんはせっせと “わたしはちゃんとした女” アピールのために一人男性社員のごみを集め、コップを洗っている。(それが周囲の女性の足を引っ張っていることをわかっていない)

 

職場の男性社員は、業務の女性に自分でもできる細々とした雑用(FAXを流すとか、取引先に電話して聞くとか、昔の伝票を探すとか)をさせるだけでなく、

 

 

「あれ、どこやったかな~?」(-ω・`)チラッチラッ..

「おっかしいなぁあ~」(-ω・`)チラッチラッ..

 

 

と大きな声でアピールし、業務女性からの

「どうしました?」「探しましょうか?」「聞いてみましょうか?」

というケアを引き出そうとする。

 

「それ、ホントーにあんた自分でできないわけ? わたしの仕事の手を止めさせてまでやらせることなの!?」

 

と問いたいことが幾度もある。

始まりは善意で与えていたケア労働がいつの間にか、女の仕事として当然のように次の世代に引き継がれ、当たり前のように押し付けられて来た。

 

……のを、わたしラオウはぶった切り終わらせようとしている。(上記過去記事参照)

 

 

 

う、これらはまだ職場だから、本来の自分の仕事と押し付けられるケア労働との線引きができる。

 

でも家庭ではそれが難しい。「お母さんはケアする役目」だと自分が内面化しているから。

 

 

 

たとえば料理洗濯掃除などの家事を一通りすませ、自分の部屋に戻り次の家事までの短い時間に自分のやりたいことに取り掛かろうとする。

本や漫画を読むとかDVDを見るとか、絵を描くとかブログ書くなどの集中力を必要とするもの。

 

そうすると、さっきまで好きに部屋でゴロゴロしていたはずの子どもが話を聞いて欲しくて部屋に入ってきて隣に寝転がったりする。

 

 

子どもが無言で隣にいるだけで、かまわなければいけない、精神的なケアをしなければいけない、という圧力を感じてわたしは泣きそうになる。

 

子どもの話を聞くのが苦痛なんじゃない。こどもの話は面白いし楽しいし大好きだ。(そのおかげで息子はとてもおしゃべりに育った)

 

 

泣きそうに辛いのは、自分のために心と体を使っている最中にそれを突如中断して一旦よそに置いておかなきゃいけないこと。

いつもいつも、自分のことはよそに置いておかれる。

 

お母さんが家族のケアに関わること以外で何かに没頭していたら、暇だと思われたりお母さん業をサボっている と見られる。

 

 

 

 

お母さんが、と言うよりこれは私個人の問題なのかもしれないけれど、たとえば今こうやってリビングのPCでブログを書いていてとなりの玄関でゆまちゃんがせっせと仕事の靴を磨いている。

そんなときはわたしは気兼ねなく集中できる。

 

けど、別のある日みたいにゆまちゃんが仕事でイライラして帰ってきて、

 

「部屋が暑い!」とか「虫が飛んでる!」とか「なにか食べたいけど食べたいものがない!」(……笑)とか、わたしにはどうしようもないことで怒りながらうろうろしてると、途端に集中できなくなる。

 

目の前の不機嫌な人をケアしなくちゃいけない って圧力を感じてしまって、自分のことを優先すると罪悪感でしんどくなるのだ。

 

 

 

目の前に家族がいることで常にケアする役割としてスタンバっていなくちゃいけない。

たとえ自分が何かに没頭し集中していても、罪悪感を持たされる上、いつでもそれは一方的に中断されてしまう。

 

家事をせっかく終了させたとしても、どうしてもそのケア役スタンバイ状態をOFFにすることができない。

フルスロットルで限界までスピード出して遠くまで行きたいのに、ちょこちょこ信号が赤になったり、子どもやお年寄りが突如道に飛び出してきては急ブレーキかけなくてはいけないような感じだ。

 

 

 

 

 

わたしは本当はもっともっとスピードが出せるのに。遠くまで行けるのに。悔しくて歯がゆくて涙が出る。

これがわたしにとってのお母さん業(ケア労働)の辛さだ

 

 

 

けれど実は、家事も心のケアもわたしは自分が苦手ではないことを知っている。生きていくうえでとても大切で価値あることだと実感もしている。

 

 

だからこそなぜそれを女性の仕事だと丸投げしているのか?

 

ケアを担わされる人だって当たり前に人間だから、当然自分のことをケアする必要があるし、誰かからケアされる必要が、あるんです。

 

そこのところが一番納得いかないし、今後もこのブログで書いていきたいです。